
江戸染色に賭けた二葉苑90年の歴史

時代を生き抜く進取の精神
「流行を追う色柄の選択はなんと言っても消費地に直結して行われる事が望ましく、交通の不便な山間の町では伝統の技法こそ継承されはして来たものの、産業的発達には自ら限度があった。
私は2年間の修業中、工場主から婿養子の話なども出たが、この道で名を上げるにはどうしても東京に出て修業を積まなければならぬと考え、なんとかして東京に出る機会を得度いと日夜考えるようになった。」(原文まま)
これは「染の里 二葉苑」の創業者の一人、2代目社長の小林繁雄がその著書「そめの一代」に残した言葉だ。長野県伊那郡に庄屋の四男として生まれ、長野の山間の町で染色の道に進んだ繁雄少年が抱いた志。3代目小林文次郎、4代目小林元文に受け継がれてきたのは、まさに進取の気性と時代の先端を生き抜く精神である。移り行く時代の流れの中で、脈々と受け継がれてきたのは繁雄の根っこにあった魂でもあった。
数々の苦難を乗り越えた創業期
1914(大正3)年、上京した小林繁雄少年は、当時、東京で第一人者であった江戸小紋師、小宮康助に弟子入りした。そこで江戸染色工芸の伝統を継承する江戸小紋の技法を伝授され、本物の技術を見抜く検品眼を練磨された。
染加工は、染問屋が白生地を仕入れ、色柄を指定して染色工場に発注する工業的な「仕入れ加工」と、お客一人ひとりに染柄と生地を製作する「誂染」に分かれていた。仕入れ加工は染問屋や染色工場が取り扱っており、誂染は悉皆業などの中間業者が手がけていた。
小宮師の下で修業していた繁雄は、その技術の高さを買われ、当時東京随一の染問屋で、高田馬場に工場を持つ大店「伊勢銀」の職人として招かれ、すぐに工場長として采配を振るうようになった。繁雄は大勢の職人たちを指導し、呉服商との折衝をしていく中で、次第に企業経営に対する興味を大きくしていく。
1920(大正9)年2月11日、繁雄は妻の叔父である土方氏の支援を受け、東京・新宿の下落合に工場を建設、職人3人を雇い入れた。屋号は土方氏の協力と大樹の芽生えを象徴して「二葉屋」とした。初代社長を土方氏に任せ、繁雄自身は仕入れ加工技術の研鑽に努め、江戸小紋、江戸更紗といった商品の生産に力を注いだ。大正時代中頃は時代の好景気もあり、東京の染色業が最も栄えた時期であった。
順調に滑り出した事業であったが、すぐに絹相場が大暴落し、取引先である問屋が打撃を受けた。二葉屋は事業を誂染中心に切り替えながら再び復活への道を歩み始めた。しかし、その矢先、23年には関東大震災が起こる。幸い工場は残ったものの、得意先であった日本橋や神田の染問屋は壊滅的な打撃を被り、商売そのものが難しくなっていった。一時期、薪炭を販売して糊口をしのいでいたが、問屋が営業を再開していくにつれて染色業も立ち直り、25年には、妙正寺川のほとり、上落合に新工場を建設した。大正から昭和へと変わろうとしていく時代、日本全体が大きな波乱へと向かうときでもあった。
昭和の初め、好景気に支えられて事業が拡大していく一方で、日本には次第に暗い影が忍び寄る。
1941(昭和16)年太平洋戦争に突入した日本は、全国に国民総動員令が発せられ、43年には染物が禁止され、防毒マスクの部品を生産する軍需産業となった。染色を支えていた板場の貴重な張板は床板となった。そして45年3月、東京大空襲によって情熱を傾けた工場はすべてが灰燼に帰してしまった。
合資会社二葉として再出発したのは、51年のことである。一時期、他の工場に勤めて家族を養っていたが、周辺の工場が徐々に生産を再開していく中で、繁雄は焦りを感じながらもじっくりとその日に向けて力を蓄え、そして復活する。
以前働いていた職人たちはすでに他の工場で仕事をしている。なんとか職人5人と小回り3人、そして2人の息子を従えての再開であった。時代に翻弄されながらも、繁雄は自らの志を忘れることはなかった。染色の求道者として、技術を守り抜いた。
東京染の地位を確立した中興期
繁雄の意思を継いだのが二人の息子、武次郎と文次郎である。繁雄は「文武両道たる人間になれ」という思いを込めて二人を名付けた。
武次郎と文次郎に対して繁雄は、広く日本の染色文化を担う人材として成長して欲しいと願った。技術を習得していくことは、同時に日本の染色文化の本質に迫ることでもある。二葉屋は二人の息子によって隆盛の時代へと向かっていった。
しかし、武次郎が50代の若さでこの世を去ってしまう。残された文次郎は、武次郎の思いを胸に、経営者として事業を拡大していく。その一方で、日本有数の染色作家としての地位も確立していく。アートディレクターとしても異彩を放つ。それは東京の染色業の近代化に大きく貢献するものであった。
文次郎が生み出した作品は、伝統的な染色技法に独自の技術を融合させたものだ。日本の技術にとどまらず、アジアの染色技術を積極的に取り入れながら、日本の花鳥風月や世界の風景を独特の感性で描いていった。巧みに色を操りながら、色彩の妙を表現していく染色の世界は、古き良き伝統を頑なに守りながらも時代の斬新な感覚を取り入れて、見る人たちに感動を与えた。それは年月を経ても変わることはない。
1977(昭和52)年の全国染色コンクール通産大臣賞など、数々の賞を受賞して名声を高めていった。87年1月に東京で開いた「日本の染色展」では、『黎明のボルブドール』という8メートルもある壁画風の大作を発表。当時の評論家やマスコミから賞賛され、各方面の注目を集めた。
文次郎の感性は、和装というジャンルを飛び越えた。自由な発想とそれを表現しきることのできる高い技術は、和や洋という垣根を越えた。タペストリー、スカーフ、着物、帯、パーテーション、ファッショングッズなど人々の生活に根付いたものへと作品は広がっていった。
江戸染色を世界へ、世界の職人たちと共に
2003(平成15)年、二葉苑はロンドンの日本大使館で「江戸更紗・小紋展」を開いた。奇しくもちょうど江戸開府400年という節目の年、4代目の小林元文は、父文次郎渾身の作「浅草寺・三社祭」を展示した。長さ10メートルの大作で、日本の祭りをモチーフに、江戸染色の技術が凝縮された作品に、英国人たちは感嘆の声を上げた。
今、「和」は海外で注目を集めている。日本の技術やデザイン性などの評価も高まってきた。その中で、江戸小紋や江戸更紗はときには和装の域を超えて、モダンなイスやアクセサリーに形を変えて海外でのファンを増やしている。時代を生きる人たちが望み、そして職人たちが自らの技でそれに応える。己れが積極的に世界の人たちにアピールしていくことで、伝統技術に新しい息吹を与えた。
元文には一つの夢がある。「私たちは職人です。伝統文化を守りながら、生活に根ざした商品を生み出していく。決して芸術を売っているわけではない。世界で注目されるのはアーティストです。でも、私は職人こそ文化を継承する主役だと考えています。日本各地、アジア、そして世界にそれぞれの地域の伝統を受け継ぐ職人がいます。私は彼らと一堂に介し、職人ネットワークを作りたい」。
元文はそんな願いを込めて、「江戸染色工房・再生プロジェクト」に取り組んだ。新しい「染の里 二葉苑」によって「伝統に育まれた文化や技術が衰退していくことはない」というメッセージ伝えたいと考えた。
2008(平成20)年、「染の里 二葉苑」は創業88年目を迎えた。
これからの10年間は100年に向けた新しいステップとなる。
職人たちが共に手を結び互いに交流していくことで、より成熟し、新しい姿を私たちに見せてくれる。100年という歴史の積み重ねを経て、「染の里 二葉苑」がどのような江戸染色の可能性を切り開いていくか。私たちは期待せずにはいられない。







